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福光屋の歴史

福光屋の歴史

江戸時代

福光屋の発祥ははるか江戸時代にさかのぼる。安永のころ、越中・福光町より一人の男が加賀の国、金沢にやってきて石引町(現在地)にある寛永二年(1625)創業の酒蔵を買い取った。六代目・塩屋太助である。七代目の太助が「塩屋」の屋号を先代の出身地の名をとって「福光屋」と改めた。八代目・太次良は酒蔵、道具蔵の増設を成し、九代目・太平二に引き継がれる。十代目・太助に至り家業はようやく軌道にのり、このころ造石数が一千石に達している。

明治・大正

十一代目福光松太郎が明治19年(1889)に生まれる。彼は福光屋中興の祖とでもいうべき人物で、酒造権である基本石数を五千石あまりにまで伸ばし、福蔵、南蔵を増築した。さらに地所を二千坪に拡張し、精米所、瓶詰工場を増設。また、富山地区との取り引きをはじめるなど市場の拡大も図り、今日の福光屋の基礎を築き上げた。

昭和

十一代目松太郎夫婦に子がなかったため、妹の嫁ぎ先である滋賀県彦根の広野家より養子として迎えたのが十二代目・博である。金沢四高を卒業した後、京都大学農学部で学び、22歳で福光屋の跡を継いだ。彼もまた福光屋を大きく躍進させた歴代の一人である。戦後の高度経済成長の流れにのり、マーケティングという概念で老舗の造り酒屋を経営した。新しい商品を開発し、地元におけるメディア広告を開始した。社屋と酒蔵を新築、黒帯を生み、長期熟成酒にも取り組んだ。また吉田健一をはじめとする各界の重鎮をもてなし、金沢の文化と酒を広く知らしめた。彼はまた、ややもすると時代に遅れがちだった日本酒業界全体にも大きく貢献した。それら数々の新たな挑戦において、一貫していたのが品質主義だった。現在はその主義を長男である福光松太郎が引き継ぎ、十三代目の歴史を受け継いでいる。

平成

十三代目松太郎(社長就任1985、昭和60年)は、高度経済成長期を経て、日本酒市場の成熟期に社長を引き継いだ。先代が進めた酒造好適米(「山田錦」、「フクノハナ」、「金紋錦」)の契約栽培化を早期に実現し、追って特別栽培米化も実現する。さらに有機栽培化も推進するなど、材料米の永続的な品質向上に注力する中、就任直後より、酵母の開発や社員蔵人制度を導入し、酒蔵の改革を敢行。素材と造りの両面から積極的な変革を行い「量より質の酒造り」、後の日本酒の級別制度廃止による品質本位の時代到来を見据えた基盤を整える。
一方で、地方の酒蔵としての可能性や日本酒の新しいマーケットを模索。若年層や女性などのニューユーザーにも好まれる日本酒を積極的に開発し、東京をはじめ都市部でのシェア拡大を視野に入れた経営を確立する。

1990年代には「黒帯」、「加賀鳶」、「百々登勢」、「瑞秀」、「風よ水よ人よ」、「初心」などの福光屋基幹ブランドを次々に立ち上げ、マルチブランド政策を展開。味わいの変革をはじめ、各ブランドのトータルデザインを刷新・確立する。先代が1959年から取り組んだ長期熟成酒の研究開発を引き継ぎ、さらに日本酒のヴィンテージという概念を確立して新たな領域と味わいを追求。商品化も実現させた。
1996年にはオフィシャルサイトを開設し、webマーケットへの早期参入を果たす。同年、海外輸出を展開し、次世代の市場開拓に積極的に取り組み、新たな日本酒需要の拡大を図る。
1999年、地方酒蔵の直営店として「SAKE SHOP 福光屋」を銀座五丁目にオープン。2016年までに東京4店舗、金沢2店舗の6つの直営店を構えるに至る。 
2001年には、これからの日本酒の未来を見つめ、醸造アルコールを添加しない米と水だけで酒を醸す純米蔵へと舵を切った。万石単位の酒蔵としては日本で最初の純米蔵となる。以降、「米を醗酵させる会社」と再定義し、日本酒の醸造技術を応用した事業展開を行い、米醗酵から生まれた自然派化粧品「アミノリセ」シリーズなどの化粧品事業、糀甘酒や調味料、スイーツなどの酒蔵ならではの醗酵食品事業にも取り組む。酒蔵による、米醗酵のある生活提案、醗酵文化の発信にも力を注いでいる。